体験記
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医学部再受験 1998.11
名古屋大学→三重大学医学部
 私は現役のとき、名古屋大学農学部に合格、手続きをしましたが、医学部を志望していたため、入学直後「いえの経済的理由」をもとにすぐに休学。一年勉強して三重大学医学部を再受験し合格しました。親の理解があったため、名古屋大学入学後はすべての学費を払い込んだ上で休学手続きをとったので難しい問題は起こりませんでした。三重大合格後はすぐに名古屋大学に退学届けを出し、承認をもらいました。
医学部再受験 1998.12
東北大学教育学部卒業→自治医科大学
 高校時代、私は理系であり筑波大学医学学群の推薦入試を受けたが、不合格。センター試験の結果も思わしくなく、急きょ文転することになった。学部選択に関しては担任の先生と相談した結果、かねてから興味のあった教育学部を選び、大学はレベルや入試科目を考えて東北大学にした。そして前期試験で合格し、入学した。1年生は教養課程ということもあり、仲間たちと遊びにいったり飲みにいったりしていたが、心の中では医学部への思いがを捨て切れずにいる自分がいた。酔いがまわったときに周りにいる人に、「俺、医学部目指していたんだ。」と語っていたり、「なぜ自分は教育学部にいるのか」という違和感を常に感じていた、自分だけが特別だという思い上がりがあり、一方ででは自分に自信がなく、非常に不安定な心境にあったと思う。

 しかし、教育学部内の学生による自主ゼミに人り、毎週教育問題について議論し、先輩と話し合ううちに教育学の深さに気づき、せっかく教育学部に入学したのだからせめて教育について自分の意見を言えるぐらいにはなろうと思い、医学部については考えないようにし、大学の授業と社会勉強に集中した。
 大学3年生になり自分の進路を再び考え始めたのだが、その時点で医師という選択肢はなく、大学に残って教育学を学び続けるか、公務員になるか、一般企業に入るかを迷っていた。可能性はいろいろあるのに、これだという道を決定できない自分を変えたいという思いがあり(もちろん観光が第一だが)、アルバイトで貯めた金で約1ヶ月間ヨーロッパを一人で旅行してきた。異文化の知らない国をバック一つで旅行することは、自分にとって非常に刺激的であり自由を感じていた。旅先で知り合った人々や心に残る風景を通して、新たな自分を発見するというよりはその時の自分自身を知ることができたのだと思う。

 大学3年生の冬になり、就職活動を始めることにし、とりあえず企業への応募力一ドを書いた。約100枚ぐらい書いてみたのだが、会社でバリバリ働く自分の姿がどうしても思い浮かばなかった。むしろ留学や研修をさせてくれる企業ばかり探していた。企業側から電話を受けたり企業セミナーに参加したりしていたのだが、こんな気持ちではいけないと考え、じっくり自分の気持ちを整理してみることにした。「もし自分が医大を再受験したら」と考えたとき、すべてのつじつまが合うような気がして体が熱くなったことを今でも覚えている。「自分は医師になり患者さんを助けたい。そのためなら己を鍛え、何日徹夜してもいい。」そう思えたとき、再び医師を目指すことを決心した。

 親しい友人に相談した後、両親に再受験のことを話した。一生を懸けるのだから自分のしたい仕事を選びたいこと。働くときは地元で働くこと。アメリカでは大学4年の課程を修了してから医学蔀にいくことなどを話した記憶がある。両親ははじめ驚いていたが、こころよく賛成してくれた。このことにはとても感謝している。大学3年の3月下旬だった。

 4月から本格的に受験勉強を始めたが、ほとんど忘れていたので数学・物理・化学の教科書を熟読し、頭によみがえらせる作業から始めた。5月からZ会の通信添削を始め、教科書を調べながら時間をかけて丁寧に解いていった。一方教育学部の先生方に再受験の旨を伝えたところ予想以上に賛成して下さり、卒業諭文を他の人より早く完成できるような予定を立ててくれた。5月中旬から文献を集め、7月初旬にいちおう仮の諭文を完成することができた。6月中は諭文作成に多くの時間を費やしたように思う。7月からは受験勉強に集中し、一日中Z会の問題を解いていた。志望校は山形大学と東北大学に絞り、八月ぐらいから河合塾と駿台の模試を月に2回ぐらいのぺ一スで受けていた。夏までは散々な出来であったが、現役生(?)はこれから伸びるんだと自分に言い聞かせながら勉強していた。ストレス解消としては以前から通っていたスポーツクラブで汗を流し、月に3、4回程度、先生や友人達と酒を飲んでいた。また、大学4年の春から市立病院に入院する子ども達に勉強を教えたり、一緒に遊ぶボランティアで活動していたので、医療に対する情熱を保っていられたのだと思う。

 秋頃から成績も上昇し何とか山形大学に合格できる見込みが出てきた。その時期に私の担当教官が自治医大のことを知っており、受験を薦められた。偶然自治医大に高校の後輩がいたので話を聞き、第一志望を自治医大に決めた。その後11月下旬から卒業論文を再び練り直す作業を始めたのだが、思っていたよりも時間がかかってしまい年末まで論文を書いていた。11月頃急に試験のことや将来のことを思い眠れなくなる日が続いた。

 年が明け、センター試験を受験し、730点をとることができたので、前期・後期とも山形大学に出願し、後は自治医科大学の試験に集中した。自治医大についても一次面接ではなぜ再受験するのかを繰り返し聞かれたが、自分の考えているままに答えた。自治医大の二次試験終丁後は卒業論文の口頭試問用の資料作りと前期試験の勉強をしていた。そして運良く自治医大に合格することができ、無事卒業することができた。合格し、多くの人に祝ってもらったときに改めて、周りの人に支えられて合格できたのだと実感した。
 悩み多き大学生活であったが、その分だけいろいろな人の話に耳を傾け、受け入れることができたように思う。
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